アメリカのシンガーソングライターのドリー・バートンの歌詞に以下のセンテンスがあります。「風向きを変えることはできないが、帆の向きを変えることはできる」(We cannot direct the wind, but we can adjust the sails.)。この言葉には、環境の変化が避けられない時代において、いかにして自らの行動を柔軟に適応させるかという、極めて本質的な示唆が含まれていると考えます。そして私はこの言葉に、現代における歯科医院の開業や経営の共通点を感じます。医療の本質という“海”は不変である一方、経済、社会、テクノロジーといった“風”は日々変化しており、われわれにはそれに応じた帆の調整、すなわち戦略と実行力が求められます。私が前作『歯科医院開業バイブル』を執筆・刊行したのは2020年のことです。当時は、歯科業界においてデジタルトランスフォーメーション(DX)が徐々に進行し始めた時期であり、また、マクロ経済環境も安定しており、金融機関による事業融資も比較的円滑に受けられる状況でした。資材価格や人件費も一定の予測可能性を有しており、開業後の収支シミュレーションが現実に即して機能しやすい「可視化された未来」を描きやすい時代だったといえるでしょう。しかしながら、2020年以降の新型コロナウイルス感染症の拡大は、こうした前提を根底から覆しました。感染対策の高度化、患者動向の変化、対面診療への不安、そして歯科医院に対する社会的評価構造の変容など、これまでの診療モデルに多角的な修正が求められました。さらに、世界的な供給網の分断によって、歯科材料・設備機器の価格上昇が発生し、経営予測の不確実性は飛躍的に増大しました。加えて、人件費の上昇と採用難も常態化し、従来の組織運営モデルでは継続的な経営が困難になるケースも出てきています。このような変化のなかで、もはや従来型の「モデル開業」は成立しにくくなっているのが現実です。経営者としての歯科医師には、これまで以上に環境変動への耐性(レジリエンス)と柔軟性、そしてリスクに対する定量的思考と決断力が求められるようになりました。いかに優れた航海士であっても、風向きを自分の都合で変えることはできません。しかし、帆の角度を変え、進路を調整し、嵐に耐える術を身につけることは可能です。これは、歯科医院の経営においても同じです。制度や社会の変化、物価や人件費の高騰、感染症リスクやデジタル技術の進展など、私たちを取り巻く「風」はつねに不安定で、予測不能です。にもかかわらず、変化を拒んで現状に留まろうとする姿勢は、むしろリスクを高める要因になり得ます。だからこそ、いま必要なのは「風に文句を言うこと」ではなく、いかにして帆を調整するかという主体的な思考と行動です。本書が、変化に対応しながらも歯科医療の本質を見失わないための“帆の設計図”となり、読者一人ひとりが自らの航路を切り開くための羅針盤となることを、心より願っています。2025年10月編集委員 荒井昌海刊行にあたって
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